中学生の時に、同級生のデキスギ君のような少し大人のような子から、指摘された「それは汎用(はんよう)と言うんだぜ。」
と高らかに笑われ、ギャフンと落ちたあの1993年の冬のことを2023年の今さら思い出した。
「ドラえもんのような凡庸(ぼんよう)ロボット」と僕の口先から出た言葉に対して間髪入れずに、彼は僕にツッコミを入れた。
そして、僕は30年経って、凡庸(ぼんよう)と振(ふ)り仮名の入ったテキストを読んだ。
『あるじゃん、凡庸(ぼんよう)って言葉。』とタイムマシーンがあったら、顔を指さして彼を笑いたいが、
43歳の僕が、13歳の彼を笑うなんて恥ずかしく、指をさすなんて、タイムマシーンがないから出来ない。
そう、小学生の時に『〇〇を言われた』ことを当人は覚えていても、『〇〇を言った』本人は覚えてないことなんて多すぎる。
きっと、僕が給食の時に、ギャグを言って自分で可笑しくて、牛乳を噴射した出来事なんて僕くらいしか覚えてないし。
後ろを振り返ってもしょうがないとはこういうことなんだね。
よりよい子どもたちの社会にしていくためには、大人が浅学(せんがく)な知識で小さな指摘で子どもたちの大きな可能性をつぶすことがない社会でないといけないなと思うので、まあ、マセガキのデキスギ君の指摘力によって、僕が迂闊(うかつ)なことを言わない大人になれたと思うので、ギブ&テイクで、チャラですね。
43歳、磨けばまだ輝くこともできると信じている。33歳ならなおさら。23歳ならまだまだ。13歳は青すぎる。
ある日、30歳を過ぎて某大学の先生に言われた『言葉のテクニシャン』という名誉ある称号は、まだこれから、輝かせていくから。
ずっと、ハートに刺さっていた、魚の骨が、今とれた気分なので痛快に書いてしまった。
ずっと、瞼(まぶた)の上につっかえていた魚の鱗(うろこ)が、目から落ちた気分なので、爽快に書いた。
レッスン
「汎用性(はんようせい)」は「ひとつのものがさまざまな用途に広く使える性質」を意味するのに対して、「凡庸性(ぼんようせい)」は「目立った特徴がなく、ありふれている性質」を意味しており、表している性質が異なる言葉です。