昭和の昔は、恋愛に順番があったらしい。
少なくとも、そう信じられていた。
Aから始まって、Bを経由して、Cにたどり着く。
どこかの誰かが決めたわけでもないのに、昭和から平成前期にかけて、この三文字は日本中で静かに合意されていた。
テレビドラマと雑誌が量産した、全国統一仕様。
いわば恋愛のJIS規格だ。
Aはキス。
Bは愛撫。
Cは完遂。
この一直線のコンベアに、疑いもなく乗る。
メディアが用意した「物語」という名のマニュアルをなぞれば、進捗は誰とでも共有できた。
分かりやすくて、説明がいらなくて、迷子にならない。
それは幸せな時代だったのか。
それとも、思考を放棄した時代だったのか。
今となっては判定不能だが、少なくとも設計図は、日本中に一枚しかなかった。
平成に入ると、その設計図が少し歪み始める。
ABCは聞かれなくなり、代わりに登場したのが、進塁という感覚だ。
一塁まで行った。
三塁まで進んだ。
ホームインは、まだ。
恋愛は物語から、競技(ゲーム)へと軽量化されていった。
歩みではなく、スコア。
感情ではなく、戦績。
ここで現れるのが「チェリー」という言葉だ。
チェリーは、最初はただの自虐だった。
だが、いつの間にか、ファースト、セカンド、サードと数えられるようになる。
ここで重要なのは、これは単なる経験回数ではないということだ。
ファーストチェリーは、本当に初めての感じ。
セカンドチェリーは、二度目なのに、まだ初回の余韻を引きずっている状態。
サードチェリーは、慣れ始めた自分を、少しだけ他人事として見ている感覚。
そこにあるのは、実績ではない。
感覚の自己申告だ。
恋愛は、成功談ではなく、状態異常の説明になった。
このチェリーという言葉が育った場所は、テレビでも雑誌でもない。
ネット配信だ。
ネット配信の主は、人生を語らない。
正確に言えば、人生を重く語らない。
酒を飲みながら、ゲームをしながら、雑談の延長で恋の話が転がってくる。
深刻にならず、説明を省き、笑いに変えるために、チェリーという言葉はちょうどよかった。
しかもチェリーは、スロットマシーンのチェリーと相性がいい。
揃えば当たり。
揃わなければ次。
恋愛はいつの間にか、ライフ制のゲームになった。
そして令和。
ここで登場するのが、ワンチャンだ。
ワンチャンは、進捗を語っているようで、何も確定させない言葉だ。
成功するかもしれない。
しないかもしれない。
そこから派生する、ツーチャン、フルチャン。
これは報告ではなく、期待値の資産管理である。
恋愛は、完結させるものではなくなった。
実況されるイベントになった。
配信の主は、人生の当事者でありながら、同時に観測者でもある。
自分の出来事を、少し引いた位置から眺めている。
「ワンチャンあるかも」と言っておけば、
場は回るし、空気も壊れない。
断定しないことが、最大の防御になる。
なぜ、ここまで言葉は複雑になったのか。
それは、恋愛がもはや「外に見せる製品」ではなく、
ネットの荒波から自分を守るための、クローズドな情報戦になったからだ。
誰にでも通じるABCを捨て、
仲間内にしか通じない暗号で語る。
ワンチャンで責任をぼかし、
チェリーで自尊心の防衛線を張る。
現代の言葉は、かつてのメディアが作った華やかな言葉より、
ずっと切実で、ずっと慎重な、安全装置付きの設計になっている。
それでも人は、移動する。
夜の道路を走りながら、
何かが起きるかもしれない方向へ向かう。

確定しないままでもいい。
ワンチャンに賭けるくらいが、ちょうどいい夜もある。
進捗がABCだろうが、フルチャンだろうが、
その管理システムの向こう側には、体温を持った人間がいる。
つづく

