エッセイ『パスタと共に去り行く。』第10話 昭和はABCで、平成はチェリーで、令和はワンチャン。

昭和昔は、恋愛に順番があったらしい。
少なくとも、そう信じられていた。

Aから始まって、Bを経由して、Cにたどり着く。
どこかの誰かが決めたわけでもないのに、昭和から平成前期にかけて、この三文字は日本中で静かに合意されていた。

テレビドラマと雑誌が量産した、全国統一仕様。
いわば恋愛のJIS規格だ。

Aはキス。
Bは愛撫。
Cは完遂。

この一直線のコンベアに、疑いもなく乗る。
メディアが用意した「物語」という名のマニュアルをなぞれば、進捗は誰とでも共有できた。
分かりやすくて、説明がいらなくて、迷子にならない

それは幸せな時代だったのか。
それとも、思考を放棄した時代だったのか。
今となっては判定不能だが、少なくとも設計図は、日本中に一枚しかなかった。

平成に入ると、その設計図が少し歪み始める。
ABCは聞かれなくなり、代わりに登場したのが、進塁という感覚だ。

一塁まで行った。
三塁まで進んだ。
ホームインは、まだ。

恋愛は物語から、競技(ゲーム)へと軽量化されていった。
歩みではなく、スコア。
感情ではなく、戦績。

ここで現れるのが「チェリー」という言葉だ。

チェリーは、最初はただの自虐だった。
だが、いつの間にか、ファースト、セカンド、サードと数えられるようになる。

ここで重要なのは、これは単なる経験回数ではないということだ。

ファーストチェリーは、本当に初めての感じ。
セカンドチェリーは、二度目なのに、まだ初回の余韻を引きずっている状態。
サードチェリーは、慣れ始めた自分を、少しだけ他人事として見ている感覚。

そこにあるのは、実績ではない。
感覚の自己申告だ。

恋愛は、成功談ではなく、状態異常の説明になった。

このチェリーという言葉が育った場所は、テレビでも雑誌でもない。
ネット配信だ。

ネット配信の主は、人生を語らない。
正確に言えば、人生を重く語らない。

酒を飲みながら、ゲームをしながら、雑談の延長で恋の話が転がってくる。
深刻にならず、説明を省き、笑いに変えるために、チェリーという言葉はちょうどよかった。

しかもチェリーは、スロットマシーンのチェリーと相性がいい
揃えば当たり。
揃わなければ次。

恋愛はいつの間にか、ライフ制のゲームになった。

そして令和
ここで登場するのが、ワンチャンだ。

ワンチャンは、進捗を語っているようで、何も確定させない言葉だ。
成功するかもしれない。
しないかもしれない。

そこから派生する、ツーチャン、フルチャン。
これは報告ではなく、期待値の資産管理である。

恋愛は、完結させるものではなくなった。
実況されるイベントになった。

配信の主は、人生の当事者でありながら、同時に観測者でもある。
自分の出来事を、少し引いた位置から眺めている。

「ワンチャンあるかも」と言っておけば、
場は回るし、空気も壊れない。
断定しないことが、最大の防御
になる。

なぜ、ここまで言葉は複雑になったのか。

それは、恋愛がもはや「外に見せる製品」ではなく、
ネットの荒波から自分を守るための、クローズドな情報戦になったからだ。

誰にでも通じるABCを捨て
仲間内にしか通じない暗号で語る

ワンチャンで責任をぼかし
チェリーで自尊心の防衛線を張る。

現代の言葉は、かつてのメディアが作った華やかな言葉より、
ずっと切実で、ずっと慎重な、安全装置付きの設計
になっている。

それでも人は、移動する。

夜の道路を走りながら、
何かが起きるかもしれない方向へ向かう。

確定しないままでもいい。
ワンチャンに賭けるくらいが、ちょうどいい夜もある。

進捗がABCだろうが、フルチャンだろうが、
その管理システムの向こう側には、体温を持った人間がいる。

つづく

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